【エッセイ】 いつかしよう 断捨離

子供の夏服の整理をきっかけに、古い服を捨てようと思った。

が、しかし「あっ、これは、、」思い出の詰まった服。眺めているだけで、色々思い出す。

そこから創作に発展することもあるので、気軽に捨てられない。

この服を着ている頃は、洗面台にやっと顔を出せるような背丈だった。

「あーあの頃の子供たちは、もういない。私はいつの間にかお別れしていたのね」

ひとり感傷に浸りながら、もとの洋服ダンスに戻す。

 

次に書類の整理をしようと思った。

どこかの紙きれに書いた詩をまとめたり、変なメモは捨てようかと。

が、しかし「これは、、、」 その時しか感じられないことが書いてある。

ここから創作に発展するかもしれないと、結局捨てるわけにいかない。

メモをノートに写しながら、時間というものはすぐに立ってしまう。

 

部屋は内面を写すものと思う。

心が乱れていると、片付けていないものが大きな顔で、テーブルや床に堂々としていても、風景と認識してしまって、受け入れてしまう。

部屋を片付けてないと、選択もごちゃごちゃにしてしまう気がして、人生にも響くようにも感じる。ゆえに片づけはしたい。

 

しかし断捨離は、物と対峙する。だから頭の中で、物が喋りだす。

「あのさー。色々ありながらも一緒に暮らした仲じゃないか!」とか。

そうそう、物は人の思いが写っている。物が人の生活を変える力も、とても大きい。

そんな彼らを 例え最近使わないからって、捨ててしまい、簡単に彼らの人生を終わりにしてしまっていいのだろうか。。

私の家よりふさわしい場所があると思った子は、バザーに。

「わけあって、ここにいるんだからさ。そのうち、役に立つときはあるよ。今だけを見ないでよ!」と言ってきてくれた子は、奥へとしまう。 ここまでいう子は、私も忘れない(本人も言っているのだから、例え何年眠っても「このときのために、取っておいて良かった~」になる)

どうってことのない物に背負ってきた物語を感じてしまう私。

「あっ、これは、、、」と言いながら、やたら物との対峙が長くて、掃除をしているのだか、創作をしているのだか、はっきりしない時間を過ごすのである。

(私の肩近くまで伸びた長女。最近まで足までしか背がなかったのに、毎日のように伸びる次女。)

2月のFBには、物と対峙すると執着が見えてくるとか、書いてましたが、、断捨離は無理してするものではないと思う。

3ヶ月たって使わなかったら捨てましょうとか、それはその言われている方の考えであって、、それに当てはまらない場合もあるはず。もちろん潔さや勇気、考えのスマートさには共感します。でも誰でも断捨離して、良くなるかというと、そうでもないし、自分に合わせるのでいいのではないかなぁと。

 

 

 

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