世代を超えて楽しむことをしたい。
日常では親と子供(親にとっては孫)が触れ合ってほしい。実家にいくときはトランプやカルタ、皆で遊ぶゲームを持参して、皆でする空間作りをしようとしてきたように思う。
でもだんだん子供も大きくなり、、親も子供(親にとっては孫)も、お互い何を話せばいいか、わからなくなってきたみたい。両者が無言でいると、間に入りたくなる私。「昭和時代の話、歴史の話、昔飼っていた猫の話、、」会話作りに、両者(親と子供たち)に話をふろうとする余り、、気が付くと私だけがしゃべってる。あー、いかん、いかん。
てっとり早いのが、両者が好きな所へ行くことだと思う。両者は動物が大好き。動物園(見世物は可哀想、と文章を以前書きましたが)へ行くと両者のテンションが高くなるので、嬉しい。
春休み、混んでる上野動物園へ父と子供達と行ってきた。
一緒に見ようとしたり、相手に見せようとしたり、アイアイ館の入口では「静かにだって」と看板を見ながら、皆んなで口の前に人差し指を立てて、シーー。この同じ動作で気持ちを一つに出来て、喜べる。
「じぃじと歩くときは手をつないでねぇ」と言うと、素直な小学生は父と手をつないでくれる。小さな手をつなぐと父も心が安らぐみたい。
私はお世話係として、安らげない。子どもが疲れないか、お腹すいてないか。動物園はベビーカーが多く(またよく前を見ないでベビーカーを押している、)父の足にぶつからないか(転倒したら大変だ)。と、ベビーカーの車輪に目を光らせる私は、気を使いまくり。。(まぁ、気を使えるのも、子として幸せですけれどもネ)
唯一じっくり見れたのは、人が混んでなかった爬虫類館。ワニもトカゲも蛙だって、じーとしている。全く動かない。
「わー素敵。彼らは、私たちと違う時間の流れにいるのね」と実感する。「彼らと話すにはどうしたらいいのだろう。スピードが違うから、ゆっくーーり待っていないと、気持ちが聞こえてこないだろうなぁ」
私は、ワニやトカゲの世界を知らない。こんな時、地球は自分中心にまわってないなぁと思う。人中心だって、ワニ中心だってまわってない。でもそれぞれが自分の時間を生きているのねと思う。
でもこの話を3人にふってみると、、無言。興味ないみたい(^^ゞ。
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戦う文章を書いてきた父(東京新聞の論説委員でした。辞めてからもある反対運動の代表をしたり)、私の前ではあまり笑ってくれない。
昔の社説を読むと、鋭い批判の中から父の正義を感じる。
私は父のような文章は全く書けないけれど、一つ真似していることがある。以前父が言っていた言葉。
「書くときは、書けないと思っても、ずっーと考えるんだよ。ずっーとひたすら考えていくと、思いつくもんなんだよ」
この思いつくまで途中であきらめない、くじけないというのは、自分を信じきることだろうか。
私も信じて、文をつづりたい。創作だから人が考えない所へズッボンと入り、よく沈んでしまうけれど。。
私も父から学び、子供へは創作の楽しさを生き方、姿で伝えたいな。これも世代を超える楽しさかな。
今の子供たちは、自己主張が強いなぁと思う。でも強すぎて相手を否定してけなしたり、やりこめたりすると、命がしぼんでしまう。
世代を超えて、年齢は関係なくて、敬うことから始めたらどうだろう。相手の良いところを見つければ、謙虚になれる。
なによりも今、同じ時代にいることを大切にしたい。もったいない。時代はどんどん変わり、いる人も変わる。今、世代を超えて 楽しもう。